日高誠実のこと
2009 / 08 / 14 ( Fri )
8月12日昨年暮れに歿くなった長兄の初盆に帰郷した。本来13日からお盆だが新しい仏さまは一日早く帰って来るそうで16日まで滞在すのは古い人たちとう同様。住職の話だと途中で買いものに出かける?そうでシオムスビを毎日供養するようにとの話であった。
小学6年から村を離れてので村の風習などほとんど知らない上に学校は東京のミッションスクールを卒業、しかも生来のアマのジャクで毎年お盆や正月のしきたりでは頑固な親たちと衝突した。来年、喜寿を迎えようとするこの年齢になってほとんど無知な郷土の歴史でただただ恥入るばかりである。
隣りの幼ななじみが骨董ずきだと聞き古書店の目録を数冊届けた。部屋いっぱいの骨董類のなかで日高誠実の書が一幅かかっていた。誠実は日向高鍋藩士から維新後明治政府に仕えた漢学者で
晩年は千葉県養老川の上流に閑居、梅樹を植え自ら梅瀬と号した。
書をよくし近隣の有志たちに頒布し生活のかてとしたと伝えられる。生家にも床の間にたたみ一畳くらいの軸がかかっていたのではやくから梅瀬誠実の名と「流芳」という大きなニ字は頭にしみこんでいた。誠実の名に再会したのは福岡教育大学の平田宗史博士にお近づきを願ったのちのことである。
わが国の師範学校の創始者アメリカ人スコットの研究を通じてのことであった。先生は旧高鍋藩の出身で誠実の子で教育学者日高眞実の研究で誠実を調査していたのであった。養老川や千葉県立図書館にも出かけたそうである。
旧跡地最寄駅には巨大な記念碑が建立されているそうである。(未見)人との出会いには不思議な
糸で結ばれているようである。先生が歿くなられてから二年が過ぎた。ときどき先生の温顔が想い出される昨今である。