来日外国人建築家たち
2009 / 06 / 01 ( Mon )
ヴォーリスとヒンデル
先日、NHK日曜日朝の「日曜美術館」で「メンソレータム」で有名な近江兄弟社の宣教師で建築家でもあったW.M.ヴォーリスの活躍ぶりを放送していた。近く、東京汐留で展示会を開催するとのことでその予告でもあった。
札幌円山霊園に地元の藤高等女学校を創立したキノルド神父の墓がある。彼を記念した女学校の記念館はヒンデルの設計になる彼のデビュー作品でもあった。とり壊しの話が出て猛烈な反対にもかかわらず2001年に解体された。同じ札幌市内の北星学園の記念館はもと宣教師館でもとの設計はヴォーリスがおこないヒンデルがそのあとを継いで完成した。ヴォーリスはこのほかに北見のピアソン記念館を設計したこおとがその後の調査で判明した。
二人共にキリスト教関係の学校、教会の設計が多くヴォーリスの作品はよく知られているがヒンデルは知名度が低い。かってのライトの帝国ホテルや三菱三号館など今とはなっては取りかえしが出来ない。長崎出島のオランダ商館は再建されたがどう見ても海に突き出ていたは思えない。一部でも
残っていれば世界遺産間違いないとおもうのだが。
ヒンデルの作品には東京近辺でも新宿の聖母病院、上智大学一号館、宇都宮松が峰教会などすばらしい建造物が残されている。夢ゆめ取り壊しなどしてはならないと思う。さらに北海道には北大ヒュッテ、 函館のトラピステイヌ修道院などがある。
文化財保存のかけごえばかりで実際にはお寒いかぎりである。それも人物研究の不足だと小生は
思っている。有名人のものだとくだらないものまで美術館、博物館をたてお祭り一時のお祭り騒ぎで
ガ鳴りたて何時のまにかキエ去ってしまう。日本人の国民性からくるのであろうか。自戒しなければと
思う。チョット血圧が高めで見苦しい話である。
以上
明治地初期来朝アメリカ人医師アッシュミートのこと
2009 / 04 / 20 ( Mon )
明治初期に来日したアメリカ人医師アッシュミートについては拙著「来日西洋人名事典」編纂時には
その人と為りにちゅて判然しなかったtが最近偶然にもインターネット上で死亡記事を見つけた。フィラデルフィア出身でペンシルベニア大学医学部出身。明治5年頃来日したった一年間ではあったが東京府病院で実際の治療に当たったり若手医師の指導んどをおこなったと伝えられる。
従来、断片的な情報しかキャッチできずにいたがヵなり具体的に情報に接することができた。在日中ハンセン病の研究に没頭し多くの論文を発表した。彼の論文一覧もネット上で知ることが可能である。
こうして今まで未知の事柄が明確になってくるのは有難い話ではる。それに反し、従来の研究が説くところに従って記事をまとめると思わぬミスを犯すことがある。
「神の手」で呼ばれ各地に遺跡から自ら埋めたニセの埋蔵物をあたかも新発見であるかのごと堀出してみせた考古学者?がいた。周囲の立派な研究者たちも気づかずにいたとは吾々素人にはどうしようにもない難事であった。しかも、一流の出版社から研究書まで出版される始末であった。l教科書も書き直した会社もあった。日本中が驚天動地の大騒ぎ!これが「来日西洋人」や「外人墓地」に関してであったらと思うと冷や汗が出る。
最近感銘した本
2009 / 01 / 30 ( Fri )
とぼし財布のなかからそれでも手に入れたく本屋の店頭から去り難い本に出会うときがある。天から降った災難同様に避け難い心情に駆られる。
最近出会った本二冊。いずれも力作、大作である。一冊は平川祐弘先生の「アーサー・ウエィリー
ーー「源氏物語」の翻訳者(白水社)、もう一冊は金子民雄先生の「ヤングハズバンド伝」(白水社)
である。いずれもフランス文学の本で有名な白水社から出版されたものでよく出してくれたと心に銘じた。
両書ともに手に持つとズッシリとする量感があり、もちろんすぐれた内容を備えた質量は計り知れない。読みとおすだけで息切れがする。書きも書いたりと感嘆するばかりであるが、ウエィリーにしても
ヤングハズバンドの両人もどうしてこんな人生が過ごせたのかとあきれるばかりである。ウエィリーの
「源氏物語」から源氏を読みはじめたとする人が日本でも多いとか。正宗白鳥?もそう述懐していたと思う。勿論、微妙な表現は不十分であるとケチをつけている人もあるがそう云う人こそ翻訳に努めたら
どうか。
ヤングハズバンド伝はまだ拾い読みの段階だが、ないものねだりを許して貰えれば金子先生にはぜひとも他のシルクロードの探検家へデインやシュタインらの伝記も書いてほしい。心からそう願っている。古書通信社の八木社長は1915年生まれで昨年暮れに平凡社から新刊を出された。九十二歳。まだまだかくしゃくとされ前著の「古本薀蓄」(平凡社 12007)でゲスナー賞を受賞された。近く祝賀会が開かれ私もお招きをうけている。
上州中之条の金井幸佐久先生は百歳を超えてから「吾妻キリスト教史」をものされた。私が高野長英をかくまったことで知られる「景作屋敷」を訪れた際に高橋先生に連れられた金井先生にお会いしたことがある。白寿を間近にしていた。その後も何度となく文通を続けいろいろご教示いだだいた。質問するとすぐに返事が届き恐縮したものである。高橋景作研究で大きな足跡を残された。加えて吾妻教育史やキリスト教史に関した著作も多い。
とにかく世のなかには偉い人が多い。つくづくそう思う昨今である。
今年もまた一年が過ぎ・・・
2008 / 12 / 22 ( Mon )
自分のブログを見るのも変だと思うが「回顧一年」という去年の今頃の記事が突然目に入ったので
さらに一年が過ぎたとこのブログを書く気になった。実はブログは金もかからないし便利だし、」それで文句を云うのも気がひけるが広告がすごい。「今晩お暇とか?」そんな宣伝コピーが延々続き加えて
迷惑メールも殺到し一時記事を書くのも控え気味である。
しかし、メモ代わりに効果的であるので使わない手はないと思い直すときがある。googleke経由で
世界中に自分の書いた「来日西洋人研究」や「外人墓地研究」が飛び回わっているのは創造するだけげも夢のようである。
現役時代にはインターネットが身近かで使えるなんて考えてもみなかった。大体、コンピュ−タは
計算万能で情報操作に活用できるなど文部省科研担当課長で大型計算機の導入に尽力されたT先生が述懐されていた。先生も亡くなられて数年たつが晩年教育会館や志木市柳瀬川のご自宅で仕事をご一緒したことが懐かしく思い出される。
今年は長兄が九十才で死去、姪ががんで死にほかにも身のまわりで何人かの偲ぶ会に出席した。
拙著「西洋近代の光」の附録を膨らませて 「東京の外人墓地」を完成させた。出版には数年かかるだろう。それまでじっくり発酵させるつもりである。
2008年12月222日記
古い記憶のなかから
2008 / 09 / 29 ( Mon )
この間、テレビを見ていたら北海道の産物を扱う番組で平取のソバを紹介していた。さらに沙流川周辺やアイヌの人の踊りなど珍しい風景などを放映していた。何年前になるか学生のS君とマンロー先生の墓を詣でたことがあった。夏休みのことでもあり函館、札幌、苫小牧と汗をぬぐいながらの小旅行であった。
青函連絡船の乗船を1台遅らせで見物した青森のねぶたの圧巻を満喫し船中でのシャワーの心地やさは今でも時々思い出すことがある。たしか200円の投入すると10分?か使用できる仕掛けであった。函館の外人墓地訪問が大きな目的であったが札幌に出て北海道大学のクラーク博士ゆかりの記念像や北大図書館の秋月さんを表敬訪問した。市内大通りにはケプロンの立像が誇りたかく建ったいる。近くには牛飼い時代のエドウイン・ダンの記念碑があったしいが準備不足で訪れることをしなっかた。
札幌市内はお祭り宿が取れず苫小牧まで足をのばし東急ホテルに落ちついた。翌朝、電車(日高本線)で富川まで乗り、さらにバスで一時間?ほど沙流川を平取まで朔った。近いうちにこの川が上流にダムができ今まで伝統の鮭漁も出来なくなるのだと土地の人が嘆いていた。参議院議員となった菅野茂氏の記念館があった。
北大の附属施設となっているマンロー先生の旧邸を見学し庭の記念碑の写真など撮ったのちご好意で先生の眠る共同墓地までクルマでおくって貰った。白木の簡素な墓碑が千代夫人のそれと並んでたてられていた。かって、軽井沢の外人墓地で帰化後の「満郎」先生の墓参りをしたことがあった。
帰りにバスの窓からバチェラー記念幼稚園の看板をみかけ次ぎのバス停で途中下車。建物などをカメラに収めたところで急な雨で近くの雑貨屋にとびこみ雨やどりをした。若者たちがゴロゴロ横になっている部屋でウドンを注文したがこれがホテルの料理よりおいしかった。テレビで甲子園の放送をながしていた。
テレビを見ながらアイヌの青年たちやマンロー先生の屋敷跡でゲートボールの会場となっていた。冬にはアイヌの熊祭りが催される場所にもなると云う。にぎやかな町場に出てアイヌの格好をした記念写真に顔だけ出して撮影し今でもときどき眺めたりする。